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学芸員のひとりごと

千金貫事の悲しみ(日本の中のはまだの美術⑤)

千金貫事の悲しみ(日本の中のはまだの美術⑤)_e0132674_10535197.jpg2014年7月13日まで開催される「日本の中のはまだの美術」の出品作品を紹介します。

作者の千金貫事(ちがねかんじ)(1901-1965)は、現在の浜田市天満町に生まれました。
原井小学校高等科を卒業した後福岡県門司市に出て柳瀬(やなせ)正夢(まさむ)と出会い、本格的に絵を描き始めます。

1919年3月に柳瀬が上京すると千金も後を追って東京に行き、柳瀬と同じ本郷洋画研究所に入所して岡田三郎助や辻永(ひさし)らの指導を受けました。
1923年8月、徴兵検査のために浜田に帰った際、関東大震災が起きます。
やむなく浜田に留まった千金は、後に明治維新史研究に新視角を提起した服部之聡(しそう)や農民労働組合運動を推進していた豊原五郎らと知り合います。
二人の影響を受けた千金は再度上京し、当時盛んだったプロレタリア文化運動に身を投じました。
1926年にプロレタリア芸術連盟が結成されると、千金は柳瀬とともにメンバーに加わっりました。

その後病気になった千金は、1929年に松江に移ります。
ここで農民組合連合会島根支部の書記長となり、県内における労働運動の先頭に立って活動しましたが、1931年の「暁の襲撃」と呼ばれる強制捜査で逮捕され、治安維持法違反により投獄されました。

翌年からは弾圧が一層強まり、1933年以降は転向や内部的混乱も続きます。そのため、1934年には加盟団体が次々に解散し、メンバーも次々に脱落していった。この年に出獄した千金はプロレタリア美術から離れ、以後大地に生きる農民の姿を描くようになりました。

1945年3月10日の東京大空襲の後、長野県の飯田出身の洋画家原鼎(かなえ)に誘われて同地に移り住み、亡くなるまで素朴で温かみのある作品を描き続けました。
この作品は、かつて浜田図書館(旧図書館)にあったものです。創造美術会第15回展出品作の「雪の藁小屋」(1962年、F50号)です。信州の冬を描いた名品です。
過去の思い出も全て雪が隠しています。
信州の自然の厳しさともうすぐ訪れる春の予感が描かれた晩年の名品と思います。

これは、旧市民会館の開館時(1964年)に浜田の人々が飯田に出向き、懇願して譲り受けて来たものですが、事情があって旧図書館に置かれることになりました。
2013年1月に閉館されるまで階段踊り場にありました。
by zingakugei | 2014-06-17 11:05 | 学芸員の仕事
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